「旅の指さし会話帳フィリピン」の著者白野慎也が追う渾身のノンフィクション
フィリピン人エンターテイナーの入国が、厳しく抑えられるようになって1年余り。
全国のフィリピンパブが、どんどん消えつつある。
歌に、踊りに、ショーに、つかの間の癒しを与えてくれた天使たちは今どこで、何をしているのだろうか? 
「旅の指さし会話帳フィリピン」の著者・白野慎也が、フィリピーナの“その後の人生”を追いかける、衝撃のレポート。
重すぎる現実(レイチェル最終回)
★「絶対いけない」仕事
「売春は絶対いけないことだと今でも思うわ。でも一度自分の良心に目をそむければできないこともないと思う。さっきクーヤに『絶対売春はしない』なんてえらそうなこと言っちゃったんだけど、売春するしかないのかなあと思ったことはあるのよ」
「君は売春したことはある?」
 僕は思い切って聞いてしまった。
「ないわ」
 一瞬間をおいてレイチェルは力なく答えた。彼女の瞳をのぞき込むとおどおどとして落ち着きがない。うそをついている目だ。『彼女は常習的に売春しているか、少なくとも売春したことがある』と確信した。ただ僕はこの点についてはもうこれ以上突っ込まなかった。
 崩壊家庭でのギクシャクした生活、白血病の妹の医療費負担、文字通り命を削るような体にこたえる仕事でレイチェルはまったく先の見えず、かすかな希望すら持ちづらい状況の中で兄弟たちのために文字通り体を張って頑張っている。だからこれ以上頑張れなどとは言えない。
「今日はありがとう。これは今日のお礼だよ」
 インタビューを終えて約束どおり謝礼の500ペソを渡すと、
「ありがとう、これで妹の薬が買えるわ」
 と言いながらレイチェルは大事そうに受け取ったばかりの紙幣を折りたたんで財布にしまいこんだ。命をつなぐ500ペソの重みを僕はひしひしと感じながら、重い荷物を自ら進んで抱え込んだ彼女の華奢な体を見つめていた。

★ハンバーガーの行方
 崩壊家庭の中で、病人と3人のまだ学生の兄弟を抱えて長女の責任を必死に果たそうとするレイチェルに心の中でエールを送るばかりだった。気がつくと彼女はハンバーガーにまったく手をつけていない。
「ハンバーガー食べなかったね。食欲ないの?」
 と僕は聞くと彼女は
「そうなの。なんだか胃が痛くて。でもあとでビール飲むから大丈夫。それよりこれをろくな食事をしてない義理の弟へのおみやげにしてもいい?」
 と聞き返してきた。
「もちろんだよ。君も大変だけど、妹さんの旦那さんも大変だねえ」
 と僕は心底、レイチェルの義理の弟さんにも同情しながら、レイチェルのやさしさやフィリピン人らしい分かち合いの心を感じていた。
「じゃ私行かなくちゃ。妹の家にお金を届けてから仕事に行くわ。クーヤ、本当にありがとう」
 といって彼女は席を立った。
「こちらこそありがとう。体に気をつけてね。君が病気になったら一大事だからね」
 彼女を激励するにはこれ以外の言葉は見つからなかった。マクドナルドの1階に降りて出口を足早に出て行く彼女の後姿を見送りながら、僕はしばらく席を立てなかった。
 彼女の救いようのない人生の重さを自分の問題のように感じて押しつぶされそうな気持ちになっていたのだ。長女の責任感を背負って気持ちの張りを保っていたのを、うわべだけを見て生意気だと短絡的に判断した自分を責めたり、彼女の強さと自分の弱さを同時に見せ付けられて、表現しようのない自己嫌悪に陥ったり、僕はかなり混乱していた。ある人間の人生の重い現実を突きつけられて軽い放心状態だったと言ってもよい。彼女は本当にお金に困った時、大きな罪悪感を抱きながらも、売春常習者になっていくのかもしれない。この国では売春は必要悪なのか……? 僕の思いは出口のない闇の空間の中でもがいていた。いや、でも彼女は強い人だからどうなってもそれなりに生きていける。大丈夫だ。僕はただそう自分に言い聞かせた。
 傍らでは幸せそうな親子の笑顔と子供たちの笑い声が聞こえてくる。この同じ瞬間にいろいろな人生を生きている人がいるんだと今さらのように感じていた。窓の外にはたそがれ迫るエドサ通りはいつもどおりの大渋滞だ。しかし今日はなぜかゆっくりした車の流れをガラス窓越しに見つめていると心が安らいでくる。不思議な気分だった。「レイチェル一家に幸あれ」「レイチェルが一人の女性としての幸せを手に入れることができますように」と僕は心の中で祈りながら、重い腰を上げて帰宅の途についた。


(レイチェルの章終わり。次回からLAカフェで働く26歳リセルの物語です)
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by webmag-c | 2006-12-05 15:49 | レイチェル8 命を削る