「旅の指さし会話帳フィリピン」の著者白野慎也が追う渾身のノンフィクション
フィリピン人エンターテイナーの入国が、厳しく抑えられるようになって1年余り。
全国のフィリピンパブが、どんどん消えつつある。
歌に、踊りに、ショーに、つかの間の癒しを与えてくれた天使たちは今どこで、何をしているのだろうか? 
「旅の指さし会話帳フィリピン」の著者・白野慎也が、フィリピーナの“その後の人生”を追いかける、衝撃のレポート。
カテゴリ:ジャネット4 なぜ日本へ?( 1 )
両親を支える一人娘(ジャネット第4回)
★今の暮らし
「日本にいる頃から、もう今度は日本に戻ってこられないんじゃないかって仕事仲間とよく話してたの。クーヤも知ってると思うけど、私の働いている時も錦糸町ではしょっちゅう警察の手入れがあって、その度にどんどん閉店する店が増えて、私たちエンターテイナーの状況がどんどんきびしくなっていくのを肌で感じてたから。今の仕事も好きだけど、稼ぎのことを考えるとやっぱり日本でまた仕事したいわ。今すぐにでもよ。でも現実はきびしいわ。アロヨも私たちのことなんかなんとも思っていないみたいだし」
 彼女の今後のライフプランや再来日への見込みについて尋ねた時、彼女はこう答えた。
 自国のエンターテイナーを切り捨てたしょせん良家のお嬢様でしかないアロヨ大統領に対するジャパユキたちの憎しみは相当強いものがあると改めて感じた。
 
「今の日給は180ペソでチップを含めて稼ぎは全部で1日平均240ペソくらい。ここのお客さんは気前のいい人が多いからチップが大きいのよね。月収は大体6000ペソくらい。決して多くはないけど、人とおしゃべりするウェイトレスという仕事にダンスにビリヤード。私の好きなことばかりだから全然苦にならないわ。小さいけど自分たちの家もあるし、家のまわりで自給用に鶏を買ったり、野菜を作ったりして家族がつましく暮らしていくにはほとんど問題のない生活を何とか送れてるわ。
 ただお母さんの病気の時にトライシクルを売っちゃったから、ドライバーだったお父さんは、自給用の養鶏と野菜作りじゃ飽き足らないみたいで、『また運転したいなあって』寂しそうに口癖のように言ってるの。何とか貯金してまた買ってあげたい。お母さんにもあまり体の負担にならないサリサリ(雑貨店)をプレゼントしてあげたいんだけど……それにお母さんはもともとからだが弱いし、お父さんも最近高血圧で誰かが病院に入るようなことになったら今の平和の生活はあっと言う間に終わりになっちゃうわ。だからお父さんとお母さんにビジネスの機会を作ってあげたいのと、いざという時のために貯金もしておきたいからぜひまた日本に行きたいの」
 お父さんにはトライシクルをお母さんにはサリサリストアを、と家族を思う孝行娘の話に僕は共感を感じながら、大きくうなずきながら聞き入っていた。

★家族を養うために
 ジャネットが家族にとりわけ強い愛を感じているのは、その生い立ちによるとことが大きいかもしれない。彼女は工場労働者の父と専業主婦の母のもとで1982年マニラ首都圏の北隣のブラカン州に生まれた。フィリピンでは非常に珍しい一人っ子だった。お母さんは体が弱く、お医者さんから2人目以降の出産しようとするなら命の保証はできないと言われたらしい。そして両親は2人目以降の子供をあきらめ、熱い愛情をジャネット一人に注いできたのだ。それだけにジャネットの両親に対する感謝の念も愛情もいっそう強いものになったのだろう。
 父親は1997年、20年来勤めていた工場から突然解雇通告を受け、貯金と退職金を合わせて60000ペソでトライシクルの新車を購入。地元でトライシクルのトライバーとして第2の人生をスタートさせた。トライシクルドライバーの家庭の暮らしは大変つましいが、特に一家に事故でもない限り、1日3食できる特に不自由のない暮らしだった。
 しかし2000年、一家に最初の転機が訪れた。お母さんが最初の乳がんになり、手術費の捻出のためにお父さんはトライシクルを売却。それでも足りずに親戚中から借金して何とか手術費用を調達。お母さんは左乳房を摘出したものの、健康を取り戻した。お母さんが大病する前年に高校を卒業していたジャネットは大学に進学していく友人をうらやましく思いながら、一時グレて不良仲間に入ってブラブラしていた。背中に刺青を入れたり、タバコをすい始めたのもこの頃だ。しかしお母さんの病気を契機に心機一転、家族を養っていくために、そして親戚への借金を返すために、お母さんの手術の直後に友人から紹介されてプロモーションに入り、エンターテイナーとして日本行きを目指すことになる。歌手としてのトレーニングをかねてマカティのKTV(カラオケレストラン)で7ヶ月間働いたものの、すぐには来日のチャンスは訪れなかった。彼女は少しでも日給のよい仕事を追って、マグノリアのアイスクリームの新製品やチョコレート・アルコール類などのキャンペーンガールの仕事、コンピューター部品工場の仕事などいくつもの仕事を転々とした。時には1日に2つ以上の仕事を抱えて頑張った。そしてようやく最初の日本行きのチャンスが訪れたのは2004年の9月だった。プロモーションに所属してからすでに4年の歳月が流れていた。
 
★楽しかった日本
「日本での仕事は楽しかったわ。それも来日してすぐに出会ったTのおかげよ。最後まで謎だったんだけど、彼は多分プロモーターだったと思うわ。片言のタガログ語と英語が話せたし、普通の会社勤めの人には見えなかったから。それに私たちの契約関係のこととか派遣のシステムとかやたらと詳しかったの」
 日本での仕事についての僕の質問に対してジャネットのこんな答えが返ってきた。開口一番に日本での仕事が楽しかったと言い切るタレントはまずいないので、彼女の言葉は非常に新鮮に耳に響いたのだ。
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by webmag-c | 2006-10-27 23:58 | ジャネット4 なぜ日本へ?