私にとって人生の転機というやつはいつも偶然に訪れるものだった。私がフィリピン語・フィリピン現代文化の研究家=フィリピン・カルチャー・ウォッチャーとして多少名前を知られるようになったのも、フィリピン・パブ・パラノイアというフィリピンパブファンにはお馴染みのサイトで、『旅の指さし会話帳フィリピン編』の著者募集の書き込みを見つけて、すぐ応募し、採用されたのが直接のきっかけだ。
それにしてもやはり、今自分が、日本人とフィリピン人の不思議な恋物語の顛末を追いかけてマニラにいることがとても不思議だ。
それまでフィリピンなんて地図の上でしか知らず、やはり近くて遠い、しかも自分にはまったく無縁の国だった。日本のメディアから提供されるフィリピンの情報といえば、麻薬の製造・販売、売春、日本人がらみの保険金殺人などの犯罪、度重なるクーデタなどの政情不安、台風や火山の噴火・土砂崩れなどによる自然災害、船舶の転覆事故などの人災、およそ平和な南の島のイメージからは程遠い『ショッキングな事件情報』ばかりだ。
ごく最近のマスメディアのフィリピン関連報道もしかりである。主犯の妻がフィリピン人だった。『仙台の赤ん坊誘拐事件』、『レイテ島地すべり災害』、エドサ革命20周年にタイミングを合わせたかのようなクーデタ未遂事件など、マスメディアの情報だけに接している限り、フィリピンは平和な日常なんてまったく無縁な東南アジアでもっとも危険な国にしか見えてこない。
そんな片寄ったマスメディアのフィリピン報道にしか接していない、以前の僕にとっては、フィリピンはできれば行きたくない恐怖の島国であったと言っても過言ではなかった。
そんな僕が、なぜこんなにもフィリピンという国とフィリピーナの魅力にはまり込んでしまったのか? それは、僕自身の一人のエンターテイナーとの出会いを抜きには考えられない。
1989年8月最後の土曜日の夜。東京新宿コマ劇場脇の広場は、夏休み最後の冒険を求める若者でごった返していた。大手食料品メーカーに就職して3年目、社会人としての生活のリズムもつかめてきた僕はそんな喧騒を楽しみながら土曜日の日課、そうディスコに向かう途中だった。しかし、若者たちの、一晩だけの恋の駆け引きの成り行きに見入っているうちいつもと違う路地を通る羽目になったのが運のつき。
新宿では老舗のピンクサロンの入り口に、黒目がちでエキゾチックな東南アジア系の美女が微笑みかける特大の写真が突然瞳に飛び込んで来た。魅入られたようにポカンと口をあけて立ち止まっていると、店のボーイが「どうぞこの娘、いいでしょう。すぐお相手できますよ」と言うが早いか、やんわりと背中を押されるままに、初体験のピンクサロンに足を踏み入れることに。「ご指名はあの写真のリリーさんでよろしいですね」というボーイの声に上ずった声で「はい」と応えるのがやっとだった。
ボックスシートに通されて場内の暗さに目が慣れてくると、あちこちのシートで「営み」が繰り広げられているのがぼんやりと見えてくる。と突然、「リリーデス。ヨロシクオネガイシマス」という舌足らずな日本語が。振り返ると、さっきの写真の彼女が・・・。
「ココ、スワッテイイデスカ」と言うので、「OK」と応えると彼女は腰掛けた。狭いボックスシートに腰掛けると彼女はいきなり僕のズボンに手をかけ、脱がせようとする。
僕は「ノー」と彼女のサービスを断った。彼女が怪訝な顔をしているので僕は怪しげな英語で「ノー サービス、ジャスト トーク」と言うと、彼女は「OK」とにっこり微笑んだ。それから30分ほど、怪しげな英語交じりの日本語で、今で言うならファースト・タイマー(初来日)のフィリピン人と英語交じりの不自由な会話を初めて楽しんだ。
「何歳ですか」では通じなくても「ハウ オウルド アー ユウ?」と言うと通じる不便さとか、ゆったりした会話のテンポがなぜかとっても楽しかった。
「お客様、もうお時間です」のボーイの一声で不思議なときめきの瞬間はタイム・オーバー、になるはずだった。が、しかし、お店の出入り口まで見送りに来た彼女が、帰り際に「ワタシ アナタスキ デートスル アトデ12ジ オミセオワル アナタ ココデマツスル OK?」
と誘ってくれたのだ。僕はうれしさを顔面一杯に表現しながら、大きく首を振りながら
「オーケー シー ユー レイター」
と何度も繰り返すと、彼女も
「シー ユー レイター」
とにっこり応えて足早に薄暗い店の中に戻っていった。ネオンの海からきたマーメイド。リリーとの出会いが今日にまでいたる僕とフィリピンの物語の始まりだとはこの時はこれっぽっちも思わなかった。
午前12時少し前、僕は本当に来るのかなあ、と半分以上の疑念を抱きながら彼女を待った。15分が過ぎ、駄目か(……以降は次回に)