そしてひょんなことから私は、会社員を続けながらフィリピンで生活するという機会に恵まれた。
在職中の大手食品メーカーが、企業イメージをアップさせる戦略の一つとして、「ボランティア休職制度」を突然導入したのである。会社から給料の60%をもらってボランティア活動ができるというなんとおいしい制度。これを利用すれば、フィリピン人の社会や生活を肌で学び、自分のフィリピン語力を徹底的に磨くことができる!
出世競争などハナから眼中にない私は、すぐに目の前のニンジンにかぶりついた。1993~94年のほぼ1年間、自分で探したボランティア団体のマニラ事務所に赴任することになったのだ。
赴任当初、フィリピン語には予想以上に苦労した。フィリピンパブでの「実戦」で、多少は自信を持っていたのだが、本物の発音は聞き取れないほど早かった。膨大な意味不明な音の波を、毎日シャワーのように浴びる。そして、ようやく聞き取った言葉も、参考書には決して書かれていない表現だったりした。
家に帰ると辞書を首っ引きでフィリピンの教科書や小説を読破。といっても、小学校の教科書や、簡単な恋愛小説だったが、おぼえた表現はすぐ翌日には使うことができる。身に付くスピードは日本にいたときとは比較にならなかった。
読めない新聞も無理矢理に読み、何を言っているのかさっぱりわからないテレビ・ラジオの聞き取りにも果敢に(無謀に?)挑戦した。フィリピンの音楽(OPM)と映画にもハマった……。
努力はうそをつかなかった。一年もするとタガログ語で考え、独り言を言い、夢を見ている自分に気づいたのである。
* *
『今リリーと出逢えたら』と、ふと思った。今ならもっとわかり合える。僕は決して彼女を忘れない。もっとも、彼女の方は、すっかりおじさんになってしまった僕に気がつかないかもしれないが。
僕の願いはひとつ、彼女の平和なフィリピンでの日常生活を垣間見てみたい。
誠実そうなフィリピン人の旦那さんとかわいい子供たちといっしょにショッピングモールを楽しそうに闊歩する姿、子供たちと公園で無邪気に戯れる姿。台所でエプロンに身を包んでフィリピン料理を鼻歌混じりに作っている姿、そんな平凡な主婦としての彼女の日常を一瞬でも見てみたい。ただ、それだけだ。
そして僕はこういうだろう。
「クムスタカ(元気かい?)。君は変わってないね。きれいだ。僕は年をとってしまったよ。あれから何度も電話をかけたんだけど、言葉ができなかったからつながらなくてごめんね。これからも幸せにね。素敵な思い出をありがとう。君を決して忘れないよ。さようなら」
「タクシー サー」
物思いにふけっていた僕は空港内のクーポン・タクシーのカウンタースタッフの呼びかけで、我に返った。
消えたエンターテイナーの今を追いかけての旅。移り気なフィリピンパブファンの中には「フィリピンパブは終わった」と公言してはばからない人もいる。確かに、遊びだけの人ならそれでいい。しかし、フィリピンパブは、その極楽的魅力を謳歌した日本人男性にとって、思い出というには新しすぎる。
それ以上に…(以降は次回に)